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思考を文字化すること〜メモランダムのすゝめ〜

2020.06.05

著者情報

井上 修平

井上 修平

九大2年。ディベートとクイズが好物。アイドルオタクと博物館美術館巡りというダブルお金のかかる趣味により年中お財布に優しくない生活を送っています。

人間これだけモノに溢れた世界に生きていると、ふとした瞬間に浮かぶ疑問、違和感、発見、批判、感動といったものが数多くあります。

けれどそれって誰にも話さぬまま寝てしまえばもう次に頭に浮かんだ時には、あれ?どこまで考えたっけ?どう整理したんだっけ?ドンピシャな表現見つけたんだけどな、なんかいいロジック組めたんだけどな……ってなって歯痒いのなんの。

大抵の場合は再び呼び起こされることもなく雲散霧消してしまいます。

行き着いた先は”思考の文字化”

そんなイライラを減らすためにかつて井上少年が始めたのが「思考の文字化」。

人類というのは忘却する生き物ですから、その場でパッとは答えが出せないものやまだぼんやりとしていて議論とは呼べそうにないものについて時間を隔てて思考を再スタートするためには何らかの形でセーブデータを残しておかねばなりません。

その手段がかつての私にとっては鉛筆と紙によるものでした。

”博覧強記帳”と名付けたこのメモを脈々と書き継ぎ、今ではなんと9巻目。当時と変わらぬ鉛筆と紙による書き込みを続けています。アナログ万歳。

「博覧強記」というネーミング

たかだか自分の思考を書き留める手帳が”博覧強記”帳っていうのはなんかしっくりこないな、と思われる方がいるかもしれません。

「強記(よく覚えておく)」の部分はいいとして、自分の思考を書くことが果たして「博覧(広く物を知っている)」に関係するか?ということですね。

実はこのネーミングにはちゃんとした意味がありまして、それには当時からの私の趣味が関係しています。

私が最も精力を注いでいる趣味というのが博物館・美術館への訪問。

行く先々の展示たちが私に与えてくれるものは知識、関心(感心)、そして思考です。

博物館・美術館ほど未知に溢れた場所に身を置きながら無思考を貫くというのは到底無理な話です。そこで発生した感動やら疑問やらの思考は漏れなく手帳に落とし込まれるわけですが、こうした「未知」に対する思考は、改めて考察・リサーチを重ねていくといずれ立派に体系立てられた知識を自分の中に出現させます。

博物館・美術館で生まれた思考の数々は、世に溢れる膨大な知識と私とが遭遇するきっかけを生む仲人としての役割を果たすのです。

「博覧」というネーミングはこの見解ゆえのこと。どうかご理解を。

自粛×思考

さてさて、この度大学生の長い長い春休みにドンピシャ被るかたちで強要された外出自粛。

私は「ヒマ」であるということに耐えられないタイプの人間で、休日の昼間とかに何もすることがなく布団の中にいたりすると「あれ?今の自分って不充実じゃないか?」という感覚に陥り動悸がします。

この春は人に会うこともままならず、空虚感ゆえにどうにかなってしまいそうな精神状態で日々耐え難きを耐えてきました。

しかしふと思えば博覧強記帳が想定している場面はまさにこういう時。

「ヒマだけど寝るって感じではないなぁ」というときに、その耐え難いヒマを凌ぐためのエサとして自分に思考のきっかけを残す。ヒマをなくし、かつ過去の自分の思考を時を経たのち深めていく。

こういう一石二鳥な便利アイテムとしての役割もこの博覧強記帳は持っているのです。

こんな時だからこそ思考の断片漂う文字の海に潜ってみるのもまた一興。

さて手帳を開いてみると、なんとも稚拙なものから大変興味をそそられるものまで実に多くの殴り書きが残されています。

”音楽は言語か?”

これは何かのテレビでも見ながらのメモだったでしょうか。

”竹取物語は果たして美談か??”

これはおそらく中学生の頃、「古典常識」というものを理解していくことにのめり込んでいた時期の書き込みでしょう。

この頃に古語辞典にあるコラム欄を片っ端から読んだおかげで、以降授業やテストで触れる大抵の古文のシチュエーションは難なく理解できるようになりました。

ちなみに私は高2のとき、このメモを元に『竹取物語の考察』という題名の読書感想文を書いたのですが、その内容もいつか再び文章にして人に見せたいものです。

なんだかノスタルジックな気分になりますね……。

思考の長期保存

たとえ一日中布団の上で横になっていたとしても、何か面白いものないかなぁと考えたときにパッと取り出せる思考のネタがあれば「ヒマ」という感覚に苛まれずに済みます。

過去の自分の思考がメモに残してあるというのは、常に思考のネタを携帯しているということです。

ヒマでヒマでどうしようもなくなったら手帳の適当な箇所を開いて目に止まった事柄についてちょっと当時を思い出せばいい。

このシステムを考えたかつての私、なかなか優秀です。褒めたい。

こうしてメモを手にとった私はめでたくヒマという地獄から救済されるわけですが、そもそも当時の私は自身が十分に吟味できなかった思考を未来の自分に託そうと数多のメモを残しているわけです。

その期待にしっかり応えて、尻切れとんぼの思考を議論と呼ぶに足るものへと昇華させていくはなんとも気持ちの良いことです。

メモを残した当時とそれを再び見るときとでは積んだ経験、得た知識、利用可能なツールが違います。

思考を手帳の中で寝かせている間に新たな思考の方向性、新たな議論の余地が生まれていたりして昔のメモからぐんぐん考察が進むということは結構あるのです。

思考も寝かせておけば美味しくなるんですね。

自伝としてのメモ

これはメモを書いて見返しての繰り返しの中で思うようになったことですが、メモはある種の日記やアルバムのような性格を併せ持っていて、実用性とは違った面で我々に寄与してくれることがあります。

メモを見返した時、きっちり文字化したものだけを思い出すということはまずなくて、そのメモを残した当時自分がどんなことを考える人間だったのか、どういう環境に身を置いていたのか、そういうものが芋づる式に思い起こされる。

そして気づけばこれまで自分が残してきた轍を再び辿って「あぁ自分ってこんな人間だったか」と簡素な自伝を編んだ気になれるのです。

例えば就職活動などで、大学生活を振り返ったり自己PRしたりということをせねばならない時が私にもいずれやってきます。

けれども、「自分のこれまでの人生を思い返してみよう」というのはふと思い立ってやろうとしてみてもそんなうまくできるものではなくて、「今まで経験した中で一番〇〇だったこと」みたいなものは案外パッと浮かばないし、無理やりそんなものを文章にしようとしたところで、自分でも全然共感できない文章を苦しみながら書くことになるわけです。

日記だってこれまで何度か試みたことはあるんですが、毎日「書こう」と思って自分の日常を綴るのは結構難しく、続いた試しがありません。

一方で、特に何を意識するともなく文字化された思考というのはその時点で自分の脳を埋め尽くしていた事象そのものですから、それを見返せば直ちに当時の自分に行き着くことができます。

考えてみればその時々の人間の状態を示すものなんて容姿と体調を除けばあとは「何を考えているのか」つまり思考くらいです。

文字化された思考を覗くことって、的確に自分を捉える方法の一つなのかもしれませんね。

思考メモ作成のすゝめ

さて、以上の通り言わずもがな私は「思考の文字化」を激推ししてるわけですが、私の稚拙な文章で伝えられることがどれほどありましょうか。

要は百聞は一見に如かず。

みなさんも思考メモのための手帳を一冊携帯してみてはいかがでしょう。

自分の脳に浮かんだ思考を最も相応しいと思う言葉で即座に紙面に落とす。

なんのリサーチも裏取りもしていない純粋な自分の疑問・違和感をそのまま文字化する。

自分の思考と正面から向き合いながら暮らすのは結構楽しいものです。

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